孫姫をたずねて爺婆の東海道53次珍道中記

=東京の孫娘に会いたくて京都三条大橋からお江戸日本橋まで5年かけて歩いています=

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 東海道53次によく出てくる言葉(第一回目完歩のHPより)

(写真は自分で撮ったものから)
宿場とは 宿場の整備は徳川家康によって関ヶ原の合戦後に始められ、東海道、続いて中山道と順次進められていった。東海道では、1601年(慶長6)に品川から大津までを53駅と定め、ここに東海道五十三次が始まった。しかし、全部が一度に設置されたわけではなく、順次整備されて一番最後に庄野宿ができたのは、1624年(寛文元)だった。 宿場では公用人馬継立てのため定められた人馬を常備し、不足のときには助郷を徴するようになった。又、公武の宿泊、休憩のため問屋場、本陣、脇本陣などがおかれた。これらの公用のための労役、業務については利益を上げることは難しかったが、幕府は地子免除、各種給米の支給、拝借金貸与など種々の特典を与えることによって、宿場の保護育成に努めた。ほかに一般旅行者を対象とする旅籠、木賃宿、茶屋、商店などが立並び、その宿泊、通行、荷物輸送などで利益をあげた。また、高札場も設けられていた。 明治時代以降、鉄道の開通などによって交通事情が変わってくると通行する人も少なくなり、衰微していった
本 陣 宿場で参勤交代の大名や幕府の役人、公家などが職泊する宿舎のことを言う。本陣は、ひとつの宿場に数軒あったそうで、本陣には、その土地の旧家、裕福な家がそれにあてられた。本陣(脇本陣も)の建物に玄関、門、書院を設けることができたが、旅籠は許されなかった。幕府公認の宿であったということだろう。
毎日、それらの人たちが泊まるわけではないので商売的には苦しかったようだ。


●写真は草津本陣跡
  ●写真は土山本陣跡 土山宿本陣は、宝永11年(1634年)、三代将軍家光が上洛の際に設けられた。本陣は、当時の大名、旗本、公家、勅使が宿泊したもので、屋内には現在でも当時の使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁になり、土山宿に宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年九月、天皇行幸の際には、この本陣でで誕生日を迎えられて、第一回天長節が行われた。(説明板を抜粋)
脇本陣

脇本陣は、本陣の予備的施設で、大きな藩で本陣だけで泊まりきれない場合や、宿場で藩同士が鉢合わせになった場合の格式の低いほうの藩の宿として利用された。規模は本陣よりも小さいが、諸式はすべて本陣に準じ、本陣と同じく宿場の有力者が勤めた。

旅 籠

旅籠とは、江戸時代、旅人を宿泊させ、食事を提供する宿屋のことで、旅籠屋の略。街道は宿場ごとに多くの旅籠があって武士や一般庶民の泊まり客で賑わった。しかし、明治時代になり旧街道が廃れ、鉄道網が発達し、徒歩や牛馬による交通が減少し、旅籠も廃業に追い込まれた。

●写真 新居宿 旅籠紀伊国屋

木賃宿

木賃宿とは、江戸時代以前の街道筋で、燃料代程度もしくは相応の宿賃で旅人を宿泊させた最下層の旅籠。宿場の外れに位置することが多い。宿泊者は大部屋で自炊が原則であり、寝具も自己負担が珍しくなかった。

問屋場 宿場を円滑に運営するために、宿役人がいた。この宿役人が業務を行うために詰めていたのが問屋場である。おもな業務は、①幕府の公用旅行者のため人足や馬の手配をすること、宿で一日に用意できる馬や人足の数も規定されていたという。②宿泊所を手配したり ③幕府の書状(公用文書)を運ぶ飛脚を管理したりした。宿役人には、①問屋(宿場の代表)②年寄り(問屋の補佐役)③帳付(宿場の運営に必要なことがらを帳簿に書き記す)
高札場 幕府や諸藩が、書き記した木の札(高札)を掲示した場所のこと。人々の目に触れるように、宿場の他、人通りの多い街道などに設置された。●写真右・草津高札-左・水口宿高札
赤坂宿
高札場
赤坂宿
高札場
赤坂宿
高札場
 
関 所

江戸時代には、江戸幕府や諸藩が、軍事・警察上の必要から再び関所を設置した。これらの関所を通行しようとする者は、通行手形を提示し、関所による確認を受けた。特に江戸から西方へつながる東海道沿いの関所では、女性と鉄砲の通交が厳しい制限を受けていた。これを「入り鉄砲・出女」と言うが、江戸在住の大名の妻が密かに領国へ帰国することと、江戸での軍事活動を可能にする江戸方面への鉄砲の流入の2つが、幕府によって厳重に規制された。関所破りは重罪とされ処せられた。日本における関所は、1869年(明治2年)に完全に廃止された。
新居関所

一里塚 慶長9年(1604)、江戸幕府は、日本橋を起点として、36町を一里と定め、一里ごとに、里程標として江戸に至るおもな街道に「一里塚」を設置する命令を出した。一里塚には、目印になるよう両側1里(約4km)ごとに榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。一里塚の大きさは五間(約9m)四方、高さ一丈(約1.7m)に土を盛り上げたもの。現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在するが街道の両側に対で設置されるのが本来の姿である。
●右・和田一里塚-左・野村一里塚
常夜燈

常夜燈とは、一晩中つけておく明かりのこと。集落の中心の設置されている常夜灯は信仰の対象として、街道沿いに設置されている常夜灯は路傍で夜道を行く人の旅路を照らし、道中の安全を守っていた。昔はろうそくや菜種油を燃やして火をつけていた。主に石やコンクリートで作られている。常夜燈に、「永代常夜燈」と刻まれているのを目にするが、これは常に心の不浄を焼き払い家内安全を祈るもので、神仏に帰依するために、心の汚れを焼き清める役割をもつ「火」を灯すことを意味。石灯籠として仏教とともに渡来した常夜燈は、もともと寺院だけに見られるものだったそうだ。
●写真 右・横田常夜燈 左・四日市-桑名間でみた常夜燈

見 附 東海道をはじめとする主要な街道の宿場の出入り口には、見付と呼ばれる構造物が存在していた。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見付、京(上方)側にあるものを京(上方)見付と呼んだ。この間がいわば宿場の範囲となるわけである。●写真 左・水口宿東見附(江戸口)跡-右・亀山宿京口
追 分 道路の分岐点を追分と呼ぶ。幹線街道と支線街道の分かれ道を示す重要なポイントで茶屋も繁盛し追分だんごをつまみながらひといきついた。

●写真 
左・日永の追分碑
右・関の西の追分
立 場